「平等」という言葉の落とし穴 ~インドの学校で思ったこと~
今日も学校に行ってきました。
学校まで90分かかるため、7:30から始まる学校には5:30に起きて準備をしなければいけません。
インドの学校は普通12時に学校が終わります。(他の先生にも聞いてみましたがこれは一般的だそうです)
その後先生はすぐに帰宅できます。
なので大体学校にいる時間は5時間ほど。
先生が10時間以上学校にいる日本とはかなり違います。
無事に学校に7時半前に着きましたが、先生がいません。
待つこと10分。
もう授業開始時間から10分過ぎています。
困惑する生徒たち。と僕。
先生が来るまで時間を繋ごうと日本の写真を見せ始めます。
40分くらい日本の写真や日本の文化について話しましたが、先生はまだ来ません。
他の先生に聞いてみると、
「3年生の先生は今日は体調不良で休みだよ。聞いてなかった?」
「。。。。。」
「聞いてません!!!」
「だから3年生をよろしくね!」
と言われました。(後にメールを見ると、僕が家を出た後にメールが入っていましたがWiFiがないとインターネットが使えない僕はオフィスに戻ってから初めてメールを見ました。)
「3年生をよろしくね!」
と言われても、何も用意してないんですけど。笑
と思いながら、昨日の算数の続きを教えようと決めました。
そしたら、マーカーがないことに気づき、他の先生に聞いたら事務室からわざわざ取ってきてくれました。
この教室には去年まで黒板がなかったため、今年からホワイトボードを購入してつけたそうです。
算数の問題をホワイトボードに書いていきます。
そして、途中でおかしなことに気づきました。
なんと一回書いたら、マーカーが消えないのです。
「。。。。。」
ホワイトボード用ではないマーカーだったみたいで、生徒に協力してもらって、みんなで消しゴムで30分程かけて消しました。笑
算数の簡単な足し算と引き算の問題を黒板に書いたのですが、クラスの勉強のレベルがばらばらで、すぐに終わってしまう子もいれば、一問も解けない子もいます。
説明を1回で分かる子どももいますが、1回ではわからない子もいます。
なので、解ける子どもにはもっと問題を与えて、解けない子どもには個別でフォローをします。
得意ではない子が、一問でも解けたら、かなり褒めてハイタッチをします。
また、学校に来ることで精一杯の子もいます。
前日に、勉強に集中してない生徒がいたので先生に聞いてみたら
「あの子は先月父と兄を同時に亡くしたんだよ。だから、やっと最近明るくなってきた」
と言ってました。
この学校の生徒の家族が亡くなることはかなり頻繁に聞きます。
他の生徒にも、
「なんで昨日学校に来なかったの?」と聞いたら、
「お兄ちゃんが死んでしまったから」と言っていて驚きました。
そんな子どもが勉強に集中することはとても難しいことです。
僕だって、家族の誰かがなくなったら、長い間勉強に集中することができないと思います。
なので、僕は生徒に対して同じ対応をしないようにしています。
生徒によって異なる対応を心掛けています。
「子ども達を平等に扱うべきである」という意見があります。
しかし、僕は教えるときには「平等」よりも「公平」であることが大事な気がします。
英語では「Equality」と「Equity」と訳されます。
この写真でもわかるように、「同じ」サポートを全員に与えることよりも、それぞれに「適した」サポートを与えることが重要だと考えます。
日本人はなんだか「平等」という言葉が好きなような気がします。
「みんなを同じように扱う」という「平等」は聞こえがいいですが、「個人の違い」に対応できないという穴があります。
生徒は一人一人異なるのだから、それに合うように先生も教え方や対応の仕方を変えるのはごく自然なことだと感じます。
「違いに寛容な学校」が「違いに寛容な社会」を作ることの初めの一歩であると思います。
日本の学校も多様化していくと思うので、先生がまずは多様化のことを理解しなければいけない。
そんなことを感じた日でした。
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