日本人は1人だけ!アメリカの大学で教育を学んでみる

日本人は1人だけ!アメリカの大学で教育を学んでみる

休学してアメリカのリベラルアーツカレッジで教育を学ぶ学生。アメリカ留学2年間終了後、アフリカに行き、インド、南米の学校で働いてた。多くの教育関係者、海外に興味を持った方に読まれるブログを運営中。

「自分の性格」は自分が思ってるよりも相対的である~2月の振り返り~

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ホンジェラスで完全にダウンしてました。笑

 

初めての水深12mくらいのダイビングの後、夜なかなか眠れず、めまいを感じ、気分が悪くなり、次の日は一日中完全に家の中で寝て過ごすという日を送りました。笑

 

体調崩すのは2年ぶりくらいだったので、久しぶりに体調崩すと「健康」でいられることの有難みに気づきます。

 

でも、1日経つと忘れてしまうのですが、、、

 

そして、蚊と毎日戦ってます。

 

片足100匹以上に刺されたすえに、遂に、超強力スプレーを購入し、手足に振り掛けました。

 

超強力過ぎて人体にも悪影響が出ると聞いたのですが、結果は如何に。。。笑

 

そして、今日は2月の最終日(ホンジェラスではまだ2/28)なので、2月の振り返りをしようと思います。

 

2月の振り返り

 

2月は、ベトナム→ブラジル→アルゼンチン→ホンジェラスの4カ国を渡り歩いた生活。

 

この中で気づいたこと、感じたことは、「自分の性格、振る舞い、言動などは、ある程度は絶対的だが、かなり相対的である」ということ。時、物、状況によってそれらは変化するということ。そして、自分の“立ち位置”というものも環境とともに変わるということの再認識。

 

<ブラジル>

自分がブラジルにいる時、なぜか温かい空気を感じた。それはブラジルにいた時のホステルの人たちが非常に友好的で、温かく迎えてくれたのであるからという要因は非常に大きいだろう。また、ブラジルという国は人種的に非常に多種多様で、しかも多くの人種が平等に接せられていると感じた(かなり主観的だが)。これは、アメリカも様々な人種がいるが、人種ごとの階級がはっきりしていたのに比べ、ブラジルでは、ヒスパニックであろうが、アフリカ系であろうが、アジア系であろうが、平等に受け入れられた気がした。そんなホステルに滞在していた自分は、かなり自分の素を出すことができ、アホなことをしても受け入れられる安心感があったし、自分から積極的に声をかけて行くことを躊躇わず、この時の自分を形容すると"フレンドリーでオープン"だったと感じる。

 

<ホンジェラス(ロアタン島)>

この島は完全に白人が牛耳っている。お店を経営してるのも白人だし、観光客も白人。ビジネスをしてるのも白人で、現地の人は、ウエイターや料理人、クリーニングと低賃金の仕事に就くしかない。この島には、アジア系、アフリカ系は少なく、ヒスパニック系と白人で構成される。この二つの人種間の貧富の差は明確であり、一目瞭然である。この状況は非常にアメリカの状況と似ている構図である。白人層が社会を牛耳っていて、それ以外の人種は残りのパイを奪い合っている(アジア人は特殊なケースが多いが)。そういった白人に牛耳られているこの島でも、「日本人」というと多少の「尊敬の念」を抱かれることがある。これはやはり、上の年代が必死に努力して戦後の日本を立て直し、世界に名を馳せる経済大国となったり、「Made in Japan」のクオリティが常に担保されていたからだろう。ある日、お店でお代を支払わずに出て、慌てて戻ったが、「あなたなら帰ってくる気がしたわ」と温かく迎え入れてくれたのは、「日本人」という信頼があったからかもしれない。このように、他の国に行っても「日本人」と言えばある一定の畏敬の念を抱かれ、ポジティブな印象を抱かれるのは自分が持つ”プリビレッジ(特権)”であり、このプリビレッジはたまたま幸運にも日本人として生まれたから獲得したもので、自らの不断の努力の結果の末に獲得したものなどではない。と、この島でも日本人というと少なからずアドバンテージはあるものの、この白人に支配されたこの島は日本人の自分にとって、どことない「息苦しさ」を感じることがある。これはものすごく主観的なもので、こうゆう社会構造だと認知しているからこそ感じてしまうものかもしれないが、この「息苦しさ」はアメリカにいた時に感じたものと似ている。「息苦しさ」というこの半無意識的感覚は、「全然知らない場所にいきなり放り込まれて、他の人達の中に入れない」時に感じたり、また「自分以外全員が知っているが、自分だけ知らない話題について話され続けられる」といった一種の疎外感に似ている。そうした「息苦しさ」をどう攻略していくかを考えるのも面白いのだが、ともかくこういった空気は日本で自分が感じることが少なくなっていて、環境が変わるとその「息苦しさ」を体感する数が増減するというのを改めて感じた。そういった息苦しさを感じる状況にいる自分は、足が竦むことが多くなり"やや消極的"になっていると感じる。

 

 

ここから言えることは2つ。

 

1つ目は、「今の自分の立ち位置は今の環境にいるからであり、もし社会構造が変われば全く違う立ち位置になる可能性がある」ということ。

 

これは自分の行動、性格、社会的立ち位置は外的要因にかなり左右されていて、自分が思っているよりも絶対的ではないということ。また、今の立ち位置にいるのも、たまたまそのような社会構造だからであり、かなり"ラッキー"であり、かなり恵まれているのであり、それが当たり前ではないということ。自分の今いる状況は自分が頑張ったから当たり前といった必然性や因果性を感じてしまいがちだが、それよりも偶然性や非因果性を頭に入れる必要があること。

 

2つ目は、こういったことは「学校や教室でも全く同じ」であるということ。

 

クラスの中では元気のない子や、いつも怒られている子も「場」が変われば、水を得た魚のように目を輝かすかもしれない。教科が違ったり、やることが違ったら途端にやる気を出すかもしれない。また、学校の外だったらもっとイキイキしてるかもしれない。「教室」という場で見る子どもたちは、彼らの一面であって、一面でしかない。

 

こういったことは、以前にも何度か感じていたのですが、 いろんな国を回ってまた強く感じたので、文章に起こしてみました。

 

明日は学校行った後、ダイビングの資格を取ってきます!

 

 

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